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ドラクエの世界観の考察⑥ DQⅦ エデンの戦士たち

前回は「ドラゴンクエストⅦ」の世界観を考える上での前提知識となる”キリスト教”と”グノーシス思想”に触れました。

簡単におさらいしておくと、アダムとイブの「エデンの園」の話においては、


■【キリストの思想】
「この世の神の教えに従う」 =善
「神の教えに背き禁忌を犯す」=悪

■【グノーシス思想】
「この世の神の教えに従う」 =悪
「神の教えに背き禁忌を犯す」=善

というものでしたね(詳しくは前回の記事をご覧ください)。

では、今回はこの知識をもとに、ドラクエⅦの世界観をそのストーリーとともに考えていきましょう。


ドラゴンクエストⅦ ~エデンの戦士たち~

ドラクエ7

エスタード島・・・世界にあるのはたった一つの平和な島です。主人公は、このエスタード島にある漁村・フィッシュベルに住む16歳の少年です。父親は漁師ボルカノ・母親はマーレ。

主人公の親友は二つ年上のキーファ。このキーファはエスタード島の王国・グランエスタードの王子であり、非常に好奇心旺盛な少年。

その好奇心から、ふたりは島の山奥にある“禁断の地”といわれる遺跡に足を踏み入れます。謎を解きながら遺跡の奥に進んでいくと、何やら数枚の石版をはめ込む形になっている台座があるのを発見。

途中、幼なじみのおてんば娘・マリベルも探検に参加し、石版を揃えた三人は台座にそれらの石板をはめ込むと、見たこともない異質な世界にワープしてしまいます。

ワープした先は魔物の住む闇に包まれた世界。この世界にある村・ウッドパルナは周囲を徘徊する魔物によってボロボロ。村の人々は絶望に瀕した心理状態でした。主人公たちはそんな世界の魔物のボスを倒し、ウッドパルナの村を救います。

そして元の世界(エスタード島)に戻ると、唯一の島であるはずのエスタード島の北に、もう一つの新たな島が出現していました。主人公たちはその島に行き、村の人々に話を聞いてみると、どうやらその島の名はウッドパルナだという…。なんと、さきほど石版をそろえてワープした世界は、過去の世界だったのです。

過去の世界にワープし、島を救うことで、現在の世界にもその島が出現(復活)する仕掛けになっていることが分かった主人公たちは、他の石版も集め、過去における別の地も訪れ、その島を救うことで数々の島の封印を解いていく旅に出るのです。



『天空シリーズ』を継承


※これ以降が「ドラクエⅦ」の考察になります。

さて、この「ドラクエⅦ」では、主人公は村の漁師の息子です。王侯貴族でもなく、勇者でもありません。そのような点では「主人公≠勇者」の図式が成り立つ『天空シリーズ』の流れを受け継いでいると言えるでしょう。

(『ロトシリーズ』では、「主人公=勇者」という設定でした)

また、主人公たちの旅は、自らの好奇心から遺跡を探索したことをきっかけとして始まったものであり、初めから「悪の討伐」を目的としていたものではありません。そのような意味でも「ドラクエⅦ」は『ロトシリーズ』とは一線を画するものであり、どちらかと言えば『天空シリーズ』寄りと言えます。

(『ロトシリーズ』においては「旅の目的=悪の討伐」でした)



信じるのは神ではなく、自らの心


主人公たちの旅は、“禁断の地”と言われている島の遺跡を自らの好奇心によって探索することから始まります。つまり「禁忌を犯す」ことによって冒険が始まるのです。

そしてその旅の中で、主人公たちは過去の世界の島を救い、封印されたその島を現世に復活させることになるのです。

ここで、何か気づくことはありませんか?


そう、上で説明したドラクエⅦの旅は、前回の記事で触れた“グノーシス思想”と共通する部分があるのです。

グノーシス思想では、

「禁断の実を食べることで、今の世界を正しく認識することができ、偽の神の支配から解放されることができる」

という考えでした。一方、先ほどのドラクエⅦの旅は、

「禁断の地に足を踏み入れることで、現世に島が出現する仕掛けを知り、封印されていた島を解放することができる」

という内容です。


つまりこの点において、ドラクエⅦは「神の教えに従うこと」ではなく「禁忌を犯すこと」を善としており、キリスト教正統派ではなく、キリスト教異端派の考えに基づいたものであると言えます。

“神なんか存在しない、信じるのは自らの心”というメッセージがここに含まれているのでしょうか?

しかし、この「ドラクエⅦ」の世界観が、完全にグノーシス思想と一致するかと言うと、実はそうでもないのです。



最後のボス「オルゴ・デミーラ」

オルゴデミーラ

ドラクエⅦの最後のボスの名は「オルゴ・デミーラ」という敵です。さて、ここで前回の記事でふれた言葉を二つ思い出してほしいのです。

まず一つは、グノーシス思想における偽の神“デーミウルゴス”です。“デーミ”も“ウルゴス”も、「オルゴ・デミーラ」と語感が似ており、ボスの名前はこの“デーミウルゴス”から取った可能性が高いです。

この“デーミウルゴス”は、グノーシス思想における偽の神ですので、神自体を悪と設定している点でも「ドラクエⅦ」はグノーシス思想に近いと言えるでしょう。


しかし、注意するのはもう一つの方です。


前回の記事で、“オルゴ”というのはラテン語で「傲慢」という意味であると言いました。そして前回、この“傲慢”という言葉は“ルシファー”の文脈で使いましたね。

ルシファーとは「本来男女の性別のない天使だったが、傲慢さゆえに神によって追放され、後にサタン(悪魔)になった存在」のことでした。

このルシファーは、一説によると、アダムとイブに禁断の実を食べることを促した蛇であるとされています。この蛇は翼を持ち、口から炎を吐く生き物でした。

そして「ドラクエⅦ」におけるボスである「オルゴ・デミーラ」にも、これと共通する部分があるのです。


わかりやすくまとめると、


【聖書に出てくるルシファーと蛇】
①ルシファーは傲慢(オルゴ)な性格
②天使に男女の区別はない(両性具有)
③イブに話しかけた蛇は翼があり口から炎を吐く


【ドラクエⅦの最後のボス】
①名前に「オルゴ」がつく
②第二形態ではオカマのような口調
③第一形態・最終形態は翼の生えた蛇のような容態で口から「しゃくねつの炎」を吐く

このような点で両者は共通しているのです。そのため、ドラクエⅦの最後の敵「オルゴ・デミーラ」は、聖書のルシファーをモデルとしてつくられた可能性が高いと言えます。


人は誰かになれる


しかし、グノーシス思想によれば、エデンの園の蛇は「世界を認識するきっかけを与えてくれた存在」であり、善という位置づけだったはずです。

グノーシス思想における善の存在が、ドラクエⅦでは悪の存在となっているのです。そのような意味で、「ドラクエⅦ」は、完全にグノーシス思想を体現した世界観とは言えないようです。

「ドラクエⅦ」は、キリスト教における「善・悪」の基準も、グノーシス思想における「善・悪」の基準も、完全には踏襲しないという形になっているのです。


これは結局、どういうことなのでしょうか?


ここから述べることは私の一つの解釈にすぎませんが、おそらく、結局はこれまで指摘してきたある言葉に結びつくのだと思うのです。それは・・・

「正義なんてのは立場によって形を変える」

結局、キリスト教もグノーシス思想も一つの思想です。「どんな思想が善で、どのような考えが悪なのか」そんなものは初めから決まっているものではありません。正しいと決められているものなんてないのです。そんな相対的世界の中で信じるのは、特定の思想ではなく、決断を下す自分の心のみ。

そのようなメッセージがあるのではないでしょうか?

現にこのドラクエⅦの旅は、少年の好奇心が禁忌を犯すことから始まりました。少年自身の内にある好奇心が旅の扉を開き、その旅が新たな真実を生み出したのです。


このドラクエⅦのキャッチコピー(PS版)は「人は誰かになれる」です。ここで「誰か」という曖昧は表現を用いたのには理由があると思います。ここで誰なのかを明確にしてしまうと、結局すでに存在している人に自分を当てはめるだけになってしまうからです。

重要なのは、自分の外側にあるものに自分を当てはめることではなく、自分の内にあるものに沿って行動していくことです(ドラクエⅦのの場合、その内にあるものとは「少年の好奇心」でした)。

そしてこの「人は誰かになれる」を英訳すると“You can be someone”となります。この“someone”には「誰か」という意味の他に「大物/重要人物」といった意味があります。

自分の外側にある思想を鵜呑みにするのではなく、自分を信じる心を基に行動する。そうすることによって、人は「新たな価値を生み出す大物」にもなれるし「新たな可能性に満ちた重要人物」にもなれます。本当にどんな人間にでもなれる・・・そう、「人は誰かになれる」のです。

 

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